前に言葉は排他的だと私は言っていて、僕が考えるにそれは使用する言語が異なれば言葉によるコミュニケーションが成立しなくなる。また文法という絶対的な時間にそぐわせて言葉を並べる必要があるということは、それにそぐわない言葉は切り捨てなければいけなくて、「言葉には一定の人間性を切り捨ててしまう側面がある」ということを私は主張したかったのだと、そのように僕は解釈した。
結局のところ私の考えていることなんて到底理解することはできないわけで、もし僕たちが水のような不可算名詞で数を持たない存在であれば、形なんて制約に縛られずに全てが混ざり合ってグチャグチャになるのだから、こんな悩みを抱えることはないのだと思う。だけど実際僕たちは形を持った生き物なのだから、重力のせいで飛べないし、時間によって老いて、物理的な距離によって一生出会えないはずの人だっている。それはあまりに悲しかったから、言葉を使用してイメージの中で僕たちは混ざり合う。つまり共感しあうことを選択したのだろう。
という僕の主張に私はどうも納得することはできなくて、言いたいことはわかるけどそんなの安全圏からの発言でしかないし、何か発言するたびに私のナチュラルな身体は言葉に置き換えられていって、もちろんそのかわり私たちは混ざり合うわけだけど、出生時から使用可能であった世界を認識する方法としての身体がすり減っていく。私は日本語を話すわけだから、日々日本人へと近づいていくわけだけれど、私が所持していた身体という認識のための方法をそれに付随するアイデンティティと共に排除していく。そのような作用を持つ言葉はとても排他的だ。私はそのようなことを考えていた。